1944年、浩三さんが筑波山麓の兵営の中で書きとめていた膨大な「筑波日記」のなかで、私が構成して舞台で読んでいる一部分を紹介します。
「筑波日記」
この貧しい記録を わがやさしき姉におくる 浩三
1944年1月21日
三島少尉に呼ばれて、ゆくと、こないだの演芸会で発表した「空の神兵」の替え歌は神兵を侮辱したものであるから、今後うたうべからず、つくるべからずと。
1月24日
あしたは軍装検査で、夜はその準備であった。なんの検査でも、検査はどうも好かぬ。
1月25日
17日の会報で、航空兵器の発明を募集していた。今日、松岡中尉に言いに行き、正式に発表することになった。すると、急に自信がなくなった。・・・もったいぶったふうで、その原稿書きに午前中をついやして、演習をのがれた。わかりきったことをくだくだ書いて、原稿にした。
1月26日
伊丹万作氏から、ひさしぶりでハガキが来た。
めずらしく雨であったが、すぐやんで、青空になった。中村班長が頭を刈ってくれといい、刈ったことがあるかという。ないけれども、あるといって、刈ってやった。顔をしかめていたから、だいぶん痛かったのであろう。餅をひとつくれた。昼飯は、動けないほど食った。そのうえ、飯ごうでおじやをつくった。
2月22日
夜、号令の練習。竹内の号令はしまりがない、と。
枯れ枝の空いたところに、星がひとつ。
明日はまた外出できる。班内でぼくが一番よく出ている。
一日中銃剣術。昼から試合。10本やって2本勝つ。いちばんビリ。
3月16日
星の飛行場が海のようだ。
便所の中で、こっそりとこの手帳をひらいて、べつに読むでもなく、友だちに会ったように慰めている。そんなことをよくする。この日記に書いていることが、実に情けないような気がする。こんなものしか書けない。それで精一杯。それがなさけない。もっと心の余裕がほしい。
中井や土屋のことを思う。余裕のある生活をして、本も読めるだろうし、ゆたかな心で軍隊を生活し、いい詩や、いい歌を作っているだろうなと思う。
3月18日
昼、木村班長が操縦見習い士官を受けるものはいないかと言いに来た。40分ほど考えていてから、受けますと言いにいった。どうして受ける気になったと、奥谷が言った。「ちょっと、いばってみたくなった」。すると「その気持ちはようわかる」と言った。涙の出るような気がした。
宇野曹長が、ぼくの服のきたないのをとがめて、いつから洗濯しないのかと言った。ほんとは9月にここへ来てから半年余り、一度もやっていないのだけれど、正月やったきりですとウソをいうと、それでもあきれていた。さっそくせいというので、雨がじゃんじゃん降っていたけれども、白い作業着に着替えて洗濯をした。
4月13日
唱歌室へ行って、オルガンを鳴らしていたら、子どもがどっさり集まってきた。「空の神兵」をひいたら、みんな、それを知っていて、声をそろえて歌い出した。自分も歌って、きわめていい気持ちになった。そこへ、笠原房子に似た女の先生が入ってきたので、体裁悪くなって逃げて帰った。
4月14日
ぼくが汗をかいて、ぼくが銃を持って。
ぼくが、グライダァで、敵の中へ降りて、
ぼくが戦う。
草に花に、娘さんに、
白い雲に、みれんもなく。
ちからのかぎり、こんかぎり。
それはそれでよいのだが。
それはそれで、ぼくものぞむのだが。
わけもなく、かなしくなる。
白いきれいな粉ぐすりがあって、
それをばらまくと、人が、みんなたのしくならないものか。
ものごとを、ありのまま書くことは、むつかしいどころか、できないことだ。
戦争がある。その文学がある。それは、ロマンで、戦争ではない。感動し、あこがれさえする。ありのまま写すというニュース映画でも、美しい。ところが戦争は美しくない。地獄である。地獄も絵に描くと美しい。書いている本人も、美しいと思っている。人生も、そのとおり。
5月8日
隊長室へ入る作法というやつはなかなかむつかしい。ノックする。戸をあける。回れ右をして、戸を閉める。また回れ右して、敬礼して、
「中隊当番まいりました!」
という。回れ右は二度するだけだけれど、何度もくるくる回るような気がする。それがワルツでも踊っているようで、楽しい気さえする。
5月13日
班内に花を生けることが許された。サイダーびんに、つつじと菜の花とぼけをさした。
窓があけはなしてあって、五月の風がすうすう流れて、はなはだ具合がよかった。ぼくははだかになって、花をみながら飯を食った。左の腕は銃剣術で、むらさき色をしていた。
5月19日
びんにさしたつつじの色が、あせていた。
きのう、ラジオでベートーベンのロマンスをきいた。
雨の降る窓に、つつじの花が咲くように、咲くように、咲いていた。
夕方が来て、さびしさがきた。
からいたばこを吸っていた。
5月27日
面会に来た竹内呉服店番頭、乾省三のかばんの中から、まるで手品使いのように食べ物が出てきた。いなりずし、うなぎ、のりまき、にぎりめし、パイカン、キャラメル、りんご、ドーナツ、バター、かんぴょう、たけのこ、しいたけ。食べていた。11屋がサイダーと親子丼をごちそうしてくれた。
6月16日
夜になって、はなはだしい眠さがきた。弾薬庫に歩哨していて、ごろりと横になって寝ていた。これが見つかれば、ただではすまぬ罪になる。営倉だけでは、すまされない。寝ていた。
あとでこのことを人に言ったら、だれも本当にしない。すくなくても2年以上の懲役であろう。
6月21日
おとといやった使役のつづきを、一日やった。手箱の奥から、中井利亮(としすけ)が入隊前におくってよこした詩が出てきた。利亮をいとおしく思うこと、切なるものであった。
背景について
竹内浩三さんが23年の生涯の中で全力をあげて創作できたのは、東京で同郷の友人たちと「伊勢文学」創刊号から第4号を準備するまでの1942年4月から9月、たった半年間のことでした。21歳のその年、日大専門部映画科を半年繰り上げて卒業。10月1日、
三重県久居町の中部第382部隊に入営。その1年後、1943年9月に茨城県西筑波飛行場に置かれた滑空部隊に転属になります。
竹内呉服店の番頭、乾省三さんは嘆いたそうです。「竹内敏之助にしたと同じく、上官に高価な反物などの付け届けをしたにもかかわらず、浩三はもっとも危険なグライダー部隊に配属されてしまった・・・」と。でも、浩三さん自身は「空を飛んだ歌」を日記に書き、上官にとがめられながらも、人が演習に出ているときに得意な地図や絵を描いたりコマをつくったりと、得意な作業で部隊では重宝されていたようです。字のかけない兵隊に、手紙の代筆をよく頼まれたりもしていました。
筑波日記はそんな兵隊のひとりであった竹内浩三さんが1944年1月1日から毎日、お便所の暗い灯りの下で書きつづけた、軍隊生活の記録です。そのほんの一部分を抜粋して紹介しました。ぜひ声に出して読み、味わってください。
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