作品集

初めてのCD

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歌と朗読でとどける竹内浩三の世界

              竹内浩三(1921-1945)

作曲・ピアノ・太鼓・歌  小園弥生

朗読・歌              西川亘 

ギター・二胡・ハモニカ  相馬正男

(2006年8月15日三重県伊勢市いせトピア

「骨のうたう、歌と朗読の会」ライブ録音よりダイジェスト版)

編集:藤原イチロー(ポートサイド・ステーション)

企画・構成:小園弥生


1 三ツ星さん 1939

随筆 父の天文学、母と映画/手紙(1940東京)

2 ♪金がきたら 1940   「街角の飯屋で」1942

♪雨 1942

3 ♪麦 1942  挿入詩「あきらめろと言うが」

♪海 1942   ♪くぬぎ林への誘い 詩・中井利亮

4「大正文化概論」「冬に死す」「メンデルスゾーンの

ヴァイオリンコンチェルト」「宇治橋」「愚の旗」

5 ♪涙も出ずに 1941

6 ♪ぼくもいくさに征くのだけれど 1942

手紙(1943.7三重)

7「わかれ」1942   望 郷 1943

8 夜通し風が吹いていた 1943  南からの種子 1943

9 (出征の日浩三さんが最後まで聴いたというチャイコフスキー「悲壮」 第4楽章から。1938年フルト・ベングラー指揮、ベルリン録音。復刻版)

「白い雲」/手紙(1944.9 筑波より野村一雄あて)

「詩をやめはしない」「日本がみえない」

10 骨のうたう

11 手紙 (1944筑波)  うたうたいは

12 松島こう子さん(浩三さん姉)の声と短歌

「歌を届ける旅」は2000年夏、三重県在住の竹内浩三さんの姉上・松島こう子さんに「骨のうたう」の歌を聴いていただこうと、ただそれだけの一念で始まりました。友人の五月女ナオミさんの企画でした。その一夜にお越し下さった方々からいただいた力をばねに翌年、自前のコンサートツアーを企画。歌も人のつながりもどんどん増えます。以来、夏になるたびに「今年はいつ?」といって足を運んでくださる奇特な方々。(三つ星さん♪の歌に合わせて体操していた娘も、いつのまにか大きくなりました。)

7年目の2006年。フル・バージョンで久々に地元三重県のみなさまにお届けしたいと、友人で俳優の西川亘さん、初めからこの活動を陰日なたから応援してくれる鍼灸・音楽家の相馬正男さんを誘って、歌と朗読の会を出前しました。地元中学生が「三つ星さん」を合唱してくれたのは作曲者冥利に尽きました。初めて、記録をつくりたい、お世話になった方々にお歳暮配りたい、と思った。

歌をつくること。それは私にとって生きる力です。あの時代に、表現を希求して自由を求めずにいられなかった浩三さんの魂を、みんなでわかちあい、ひびきあえたら・・・私はほんとに幸せです。

お力を下さった方、つたない歌を聴いてくださった多くの方々につつしんで大きな花束を。

「ありがとう!」

2006年秋

(これは100枚だけ作った記録CDのカバーに書いたものです。

おそるおそる、ライブのときに1000円でおわけしています。

たまに聴くと、つくづく「西川亘はいい声じゃー」と思います。浩三さんゆかりの方々も「あの俳優さんはいいわね」と気に入ってくださいました。人をたやすくほめない昔の方たちがおっしゃるので、ありがたみ倍増!)

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勲章

これは浩三さん書いた小説「勲章」(1942年)を歌しばいにしようと、再構成して書き起こしたものです。

僭越ながら、私と浩三さんの合作です(2006年12月)。

初演は2007年2月に新横浜スペースオルタで、西川亘さんとの掛け合いで歌いました。

勲章をはじめてもらった彼はすぐさま恋人に見せに行った

彼女は大きな目をくりくりさせて「まあきれい」 そういった

手柄話をたずねもせずに彼女はひとこと「くださらない?」といった

「あなたのほしいものならなんでもあげたい けれどこれだけは」 と応えた

彼は困った顔して「ほまれ」に火をつけ 絵描きの男に見せに行った

男も「ほぅなかなかきれいなものだね」としばらく眺めていた

そして「どんな手柄でもらったの」とお義理でいうように言った

彼は手柄話をしながら あじけなくばかげたような気がした

かの恋人はほかの男とケッコンし 彼は生きる気をなくし死ぬることを考えた

それで戦場ではいつも危険な仕事をやった けれど死ななかった

勲章を増やした彼は勲章を大切にする女とケッコンした

だが妻は彼が無事で帰ることを喜び 勲章には喜ぶふりをした

彼はいつからか勲章をぶらさげて人前に出るのを好まなくなった

だが勲章を並べてひとり眺めるのはまだ楽しみなことであった

彼は61歳で退役し孫は五人、釣りや弓をして暮らした

自分を幸せものだと思って大いに満足して暮らした

ある日くだんの絵描きの男にたくさんの勲章を見せた

いまだにぶらぶらしている絵描きはひとつひとつ眺めると言った

「君はまるで勲章をもらうために生きてきたようだ。りっぱだね」

彼は絵描きが帰ってから 急にふさぎこんでしまった

「おれのしてきたことはたったこれだけのことだったのか」

彼は苦しくなり、病気になってしまった

「くださらない」といったむかしの恋人の眼が浮かんでは消えた

「やってしまおうか」と考え 彼女に会いに出かけた

おじいさんとおばあさんになったふたりは茶をすすりながら静かにすわっていた

孫のことなども話し合い あのときの勲章をおもむろに出した

彼女は手にとってしばし眺めたがとつぜんそれをぽいと口に入れた

勲章をなめながら彼女は大きな目をくりくりさせて笑った

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筑波日記(抜粋)

1944年、浩三さんが筑波山麓の兵営の中で書きとめていた膨大な「筑波日記」のなかで、私が構成して舞台で読んでいる一部分を紹介します。

「筑波日記」

この貧しい記録を わがやさしき姉におくる 浩三

1944年1月21日

三島少尉に呼ばれて、ゆくと、こないだの演芸会で発表した「空の神兵」の替え歌は神兵を侮辱したものであるから、今後うたうべからず、つくるべからずと。

1月24日

あしたは軍装検査で、夜はその準備であった。なんの検査でも、検査はどうも好かぬ。

1月25日

17日の会報で、航空兵器の発明を募集していた。今日、松岡中尉に言いに行き、正式に発表することになった。すると、急に自信がなくなった。・・・もったいぶったふうで、その原稿書きに午前中をついやして、演習をのがれた。わかりきったことをくだくだ書いて、原稿にした。

1月26日

伊丹万作氏から、ひさしぶりでハガキが来た。

めずらしく雨であったが、すぐやんで、青空になった。中村班長が頭を刈ってくれといい、刈ったことがあるかという。ないけれども、あるといって、刈ってやった。顔をしかめていたから、だいぶん痛かったのであろう。餅をひとつくれた。昼飯は、動けないほど食った。そのうえ、飯ごうでおじやをつくった。

2月22日

夜、号令の練習。竹内の号令はしまりがない、と。

枯れ枝の空いたところに、星がひとつ。

明日はまた外出できる。班内でぼくが一番よく出ている。

一日中銃剣術。昼から試合。10本やって2本勝つ。いちばんビリ。

3月16日

星の飛行場が海のようだ。

便所の中で、こっそりとこの手帳をひらいて、べつに読むでもなく、友だちに会ったように慰めている。そんなことをよくする。この日記に書いていることが、実に情けないような気がする。こんなものしか書けない。それで精一杯。それがなさけない。もっと心の余裕がほしい。

中井や土屋のことを思う。余裕のある生活をして、本も読めるだろうし、ゆたかな心で軍隊を生活し、いい詩や、いい歌を作っているだろうなと思う。

3月18日

昼、木村班長が操縦見習い士官を受けるものはいないかと言いに来た。40分ほど考えていてから、受けますと言いにいった。どうして受ける気になったと、奥谷が言った。「ちょっと、いばってみたくなった」。すると「その気持ちはようわかる」と言った。涙の出るような気がした。

宇野曹長が、ぼくの服のきたないのをとがめて、いつから洗濯しないのかと言った。ほんとは9月にここへ来てから半年余り、一度もやっていないのだけれど、正月やったきりですとウソをいうと、それでもあきれていた。さっそくせいというので、雨がじゃんじゃん降っていたけれども、白い作業着に着替えて洗濯をした。

4月13日

唱歌室へ行って、オルガンを鳴らしていたら、子どもがどっさり集まってきた。「空の神兵」をひいたら、みんな、それを知っていて、声をそろえて歌い出した。自分も歌って、きわめていい気持ちになった。そこへ、笠原房子に似た女の先生が入ってきたので、体裁悪くなって逃げて帰った。

4月14日

ぼくが汗をかいて、ぼくが銃を持って。

ぼくが、グライダァで、敵の中へ降りて、

ぼくが戦う。

草に花に、娘さんに、

白い雲に、みれんもなく。

ちからのかぎり、こんかぎり。

それはそれでよいのだが。

それはそれで、ぼくものぞむのだが。

わけもなく、かなしくなる。

白いきれいな粉ぐすりがあって、

それをばらまくと、人が、みんなたのしくならないものか。

ものごとを、ありのまま書くことは、むつかしいどころか、できないことだ。

戦争がある。その文学がある。それは、ロマンで、戦争ではない。感動し、あこがれさえする。ありのまま写すというニュース映画でも、美しい。ところが戦争は美しくない。地獄である。地獄も絵に描くと美しい。書いている本人も、美しいと思っている。人生も、そのとおり。

5月8日

隊長室へ入る作法というやつはなかなかむつかしい。ノックする。戸をあける。回れ右をして、戸を閉める。また回れ右して、敬礼して、

「中隊当番まいりました!」

という。回れ右は二度するだけだけれど、何度もくるくる回るような気がする。それがワルツでも踊っているようで、楽しい気さえする。

5月13日

班内に花を生けることが許された。サイダーびんに、つつじと菜の花とぼけをさした。

窓があけはなしてあって、五月の風がすうすう流れて、はなはだ具合がよかった。ぼくははだかになって、花をみながら飯を食った。左の腕は銃剣術で、むらさき色をしていた。

5月19日

びんにさしたつつじの色が、あせていた。

きのう、ラジオでベートーベンのロマンスをきいた。

雨の降る窓に、つつじの花が咲くように、咲くように、咲いていた。

夕方が来て、さびしさがきた。

からいたばこを吸っていた。

5月27日

面会に来た竹内呉服店番頭、乾省三のかばんの中から、まるで手品使いのように食べ物が出てきた。いなりずし、うなぎ、のりまき、にぎりめし、パイカン、キャラメル、りんご、ドーナツ、バター、かんぴょう、たけのこ、しいたけ。食べていた。11屋がサイダーと親子丼をごちそうしてくれた。

6月16日

夜になって、はなはだしい眠さがきた。弾薬庫に歩哨していて、ごろりと横になって寝ていた。これが見つかれば、ただではすまぬ罪になる。営倉だけでは、すまされない。寝ていた。

あとでこのことを人に言ったら、だれも本当にしない。すくなくても2年以上の懲役であろう。

6月21日

おとといやった使役のつづきを、一日やった。手箱の奥から、中井利亮(としすけ)が入隊前におくってよこした詩が出てきた。利亮をいとおしく思うこと、切なるものであった。

背景について

竹内浩三さんが23年の生涯の中で全力をあげて創作できたのは、東京で同郷の友人たちと「伊勢文学」創刊号から第4号を準備するまでの1942年4月から9月、たった半年間のことでした。21歳のその年、日大専門部映画科を半年繰り上げて卒業。10月1日、

三重県久居
町の中部第382部隊に入営。その1年後、1943年9月に
茨城県
西筑波飛行場に置かれた滑空部隊に転属になります。

竹内呉服店の番頭、乾省三さんは嘆いたそうです。「竹内敏之助にしたと同じく、上官に高価な反物などの付け届けをしたにもかかわらず、浩三はもっとも危険なグライダー部隊に配属されてしまった・・・」と。でも、浩三さん自身は「空を飛んだ歌」を日記に書き、上官にとがめられながらも、人が演習に出ているときに得意な地図や絵を描いたりコマをつくったりと、得意な作業で部隊では重宝されていたようです。字のかけない兵隊に、手紙の代筆をよく頼まれたりもしていました。

筑波日記はそんな兵隊のひとりであった竹内浩三さんが1944年1月1日から毎日、お便所の暗い灯りの下で書きつづけた、軍隊生活の記録です。そのほんの一部分を抜粋して紹介しました。ぜひ声に出して読み、味わってください。

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