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このブログは放置状態になってしまって、ごめんなさい。

昨年6月に、私が2000年からずっと お世話になってきた

浩三さん仲間の 黒幕コーディネーター 森節子さんをなくし

東京で新たに森さんのご遺志を継ごうと集まったり、ホームページやプログを立ち上げたり、イベントをやったり、浩三手ぬぐいを作ったりしてきました。

朗読の佐々木健さん、アートディレクターの松島新さん、そして京都の

詩人 杏さだ子さんなど、大切ななかまです。

浩三さんと森さんを介して、私たちは出会い、浩三コミュニティをつくっています。

そしてまた色々な人との出会いがありますhttp://blog.takeuchikozo.com/

うれしいことです。

そんなことごとをみんなのブログにつづっています。

ご覧いただければ幸いです。

1人でできることはほんとに微々たることで、

いろんな出会いの中に生かされていることに感謝します。

森節子さん、ありがとう。

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2008年夏の予定

いやはや、暑いです。暑中お見舞い申し上げます。よろしかったら

足をお運びください 

■竹内浩三作品展

三重県松阪市の本居宣長記念館で。詳細はこちら

http://www.norinagakinenkan.com/whats/08natsu_special.html

8/10(日)午後に作品研究会があり、私も30分歌を聴いていただきます。

新作・紙芝居も披露されるそうです。

■生きることは楽しいね~竹内浩三(1921-45)の青春

マンガ・詩・日記・歌をみる、語る、聴く

8月30日(土)15:00-東京 江戸深川「深川いっぷく」にて、1000円。

佐々木健さん、松島新さんとごいっしょに企画しました。

詳細はこちら

みんなのブログができました。(8/2の記事にてごらんください)

http://blog.takeuchikozo.com/

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にぎやかな集い2008

2008年5月11日。

祝!「竹内浩三2008_3にぎやかな集い2008」

 伊勢市の赤心門寺の本堂ホールにて、

 大盛況に終わりました。

今日の中日新聞(三重版)によると、130人も集まったとか。

藤田明先生の「伊勢文学」をめぐる講話、松島こうさんらの浩三さんのとりもつご縁の広がりのお話、地元伊勢青年劇場の方々による詩の朗読(伊勢弁がたいそう好評でした。また聴きたいです。)、

私も、ちょこっと歌わせていただきました。「勲章」と「三つ星さん」と。

最後は「五月のように」の群読という趣向で、これもよかったです。

会場からの質問で、「筑波日記に、姉から香水が送られてきたが何に使うんだろう、と書かれていますが、どうして送ったのですか」と。

その姉本人である松島こうさん(90歳)いわく

「あの子は洗濯をせずにいつも臭い衣類を持ち帰って来ていたので、軍隊でもそうではないかと思って、、、」と。

笑ってしまいました。ヨーロッパの貴族みたいですなぁ。粋で。香水で匂いを消す。浩三さんには理解できなかったのですね。

筑波日記に「いつから洗濯をしないのだ」と上官にとがめられ、「今年になってからであります!」「さっそくせい!」といって雨降りの中でせんたくをする話がでてくるのですけど、それはうそで「実は秋からしていないのだ」と書いてあるのです。うわ。

このくだりが好きです。いつも朗読に入れています。

世話人の方々、本当にお疲れさまでした!

開催にあたって私もかげながら念力使った?ので、にぎやかになってうれしかったです。いろんな意味で・・・。

次は、もう少し浩三さんを知らなかった人や若い人々にも来てもらえるといいのですが。

朗読コンテストとかするといいよねぇ、競争が目的でなくて、参加する人が楽しくなるような。って毎年この会を開くのに尽力してこられた森節子さんと、よく話していました。

これからの世代につないでいくこと。

それは病に倒れられた森さんの分まで、私たちがやっていければなぁと

思っています。

上の写真は、集いの様子です。われらがホープ、作家・稲泉連さんのスピーチ。

2008_4 左は二次会で。松島こうさんを囲んで。伊勢では、ひとりひとりのお膳がでてくるのにびっくり! 黒澤映画みたい、と感激してしまいましたよ。。。

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2007年の夏

Isebito158_hp 7月22日。

NHKのハイビジョンで90分の浩三さん特集が放送された。お姉さんの松島こうさん(89歳)もお元気な姿で何度も登場し、たくさんの詩が紹介され、日大芸術学部に学ぶ浩三さんの後輩である学生たちが取材していくという構成もよかった。「骨のうたう」が原型で紹介されたのもうれしかった。

8月1日。

伊勢文化舎から出た雑誌「伊勢人」が送られてきた。特集「竹内浩三がみたNIPPON」というもので、写真と記事が満載、色とデザインも美しい一冊だった。あっぱれ。よくぞこんなに網羅して取材して歩いたことよ。「朗読しよう」という詩のセレクトも私の好きなものばかりだった。大切にページを繰った。

http://www.isebito.com/

地元の市民メディアの心意気がじわんと流れてきた。お礼に、CDを送った。

その送られてきた「伊勢人」の封筒がまたすばらしい。

「ゆるゆる自分らしく生きる人に」というキャッチがついている。ほんとに、そうしたいものである。いろんな場所ですき間というものがなくなって、競争とか効率とか成果とかに追われている。こころの病気の人も増えるいっぽうだ。日常的なじわじわとした戦争。戦場。そんな気がする。だから、浩三さんのことばがより響くのではないかしら。

7月29日。

組合仲間の、福祉の世界で働く友人が昨年私の歌を聴いてくれ、ぜひにと呼んでくれた。

ヘルパーさんやケアマネさんたちの集会で1時間ほど歌った。西川君にも3曲歌ってもらった。彼の朗読「わかれ」は絶品だ(リンクで聴いていただけます)。ときどき涙をこぼしながら読んでいることすらある。すごい理屈っぽいところもあるのに、いい奴、と思う(すみません、学生時代の友人なもので。。。)。

筑波日記の朗読を呼んでくれた組合のメンバーHさんに西川君とかけあいでしてもらう。「骨のうたう」を歌い、「うたうたいは」を歌い終えても時間がちょっと余ったので「勲章」を歌う。しんみりしていた空気が一転する。あはは、むふふ、と笑いが広がるのがうれしい。

これぞ浩三さんの世界。うたは楽しくなければ。

8月は毎年毎年自主企画を開いてきた。暑いさなかに、きらいな稽古にいそしんできた。自分で場をつくるのは好きにできていいのだけれど、制作のエネルギーもいる。今年はちょっとしんどくて、充電することにした。ら、やることがない。楽しみがない。

と思っていたら、松阪市にある浩三さんの作品を全部納めている本居宣長記念館で若い学芸員の千枝さんが企画作品展のご案内をくださった。千枝さんとは伊勢で4年前にひょんなところで出会った。そのときはまだ学生さんだった。

みんながちゃんと自分の持ち場で仕事をひろげ、浩三さんの風呂敷を広げている。

私も充電して、一段と深まりと楽しみのある作品をつくりましょう。

いつか「浩三さんのおかげまつり」をみんなでするのが夢です。

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初めてのCD

Photo_2

歌と朗読でとどける竹内浩三の世界

              竹内浩三(1921-1945)

作曲・ピアノ・太鼓・歌  小園弥生

朗読・歌              西川亘 

ギター・二胡・ハモニカ  相馬正男

(2006年8月15日三重県伊勢市いせトピア

「骨のうたう、歌と朗読の会」ライブ録音よりダイジェスト版)

編集:藤原イチロー(ポートサイド・ステーション)

企画・構成:小園弥生


1 三ツ星さん 1939

随筆 父の天文学、母と映画/手紙(1940東京)

2 ♪金がきたら 1940   「街角の飯屋で」1942

♪雨 1942

3 ♪麦 1942  挿入詩「あきらめろと言うが」

♪海 1942   ♪くぬぎ林への誘い 詩・中井利亮

4「大正文化概論」「冬に死す」「メンデルスゾーンの

ヴァイオリンコンチェルト」「宇治橋」「愚の旗」

5 ♪涙も出ずに 1941

6 ♪ぼくもいくさに征くのだけれど 1942

手紙(1943.7三重)

7「わかれ」1942   望 郷 1943

8 夜通し風が吹いていた 1943  南からの種子 1943

9 (出征の日浩三さんが最後まで聴いたというチャイコフスキー「悲壮」 第4楽章から。1938年フルト・ベングラー指揮、ベルリン録音。復刻版)

「白い雲」/手紙(1944.9 筑波より野村一雄あて)

「詩をやめはしない」「日本がみえない」

10 骨のうたう

11 手紙 (1944筑波)  うたうたいは

12 松島こう子さん(浩三さん姉)の声と短歌

「歌を届ける旅」は2000年夏、三重県在住の竹内浩三さんの姉上・松島こう子さんに「骨のうたう」の歌を聴いていただこうと、ただそれだけの一念で始まりました。友人の五月女ナオミさんの企画でした。その一夜にお越し下さった方々からいただいた力をばねに翌年、自前のコンサートツアーを企画。歌も人のつながりもどんどん増えます。以来、夏になるたびに「今年はいつ?」といって足を運んでくださる奇特な方々。(三つ星さん♪の歌に合わせて体操していた娘も、いつのまにか大きくなりました。)

7年目の2006年。フル・バージョンで久々に地元三重県のみなさまにお届けしたいと、友人で俳優の西川亘さん、初めからこの活動を陰日なたから応援してくれる鍼灸・音楽家の相馬正男さんを誘って、歌と朗読の会を出前しました。地元中学生が「三つ星さん」を合唱してくれたのは作曲者冥利に尽きました。初めて、記録をつくりたい、お世話になった方々にお歳暮配りたい、と思った。

歌をつくること。それは私にとって生きる力です。あの時代に、表現を希求して自由を求めずにいられなかった浩三さんの魂を、みんなでわかちあい、ひびきあえたら・・・私はほんとに幸せです。

お力を下さった方、つたない歌を聴いてくださった多くの方々につつしんで大きな花束を。

「ありがとう!」

2006年秋

(これは100枚だけ作った記録CDのカバーに書いたものです。

おそるおそる、ライブのときに1000円でおわけしています。

たまに聴くと、つくづく「西川亘はいい声じゃー」と思います。浩三さんゆかりの方々も「あの俳優さんはいいわね」と気に入ってくださいました。人をたやすくほめない昔の方たちがおっしゃるので、ありがたみ倍増!)

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勲章

これは浩三さん書いた小説「勲章」(1942年)を歌しばいにしようと、再構成して書き起こしたものです。

僭越ながら、私と浩三さんの合作です(2006年12月)。

初演は2007年2月に新横浜スペースオルタで、西川亘さんとの掛け合いで歌いました。

勲章をはじめてもらった彼はすぐさま恋人に見せに行った

彼女は大きな目をくりくりさせて「まあきれい」 そういった

手柄話をたずねもせずに彼女はひとこと「くださらない?」といった

「あなたのほしいものならなんでもあげたい けれどこれだけは」 と応えた

彼は困った顔して「ほまれ」に火をつけ 絵描きの男に見せに行った

男も「ほぅなかなかきれいなものだね」としばらく眺めていた

そして「どんな手柄でもらったの」とお義理でいうように言った

彼は手柄話をしながら あじけなくばかげたような気がした

かの恋人はほかの男とケッコンし 彼は生きる気をなくし死ぬることを考えた

それで戦場ではいつも危険な仕事をやった けれど死ななかった

勲章を増やした彼は勲章を大切にする女とケッコンした

だが妻は彼が無事で帰ることを喜び 勲章には喜ぶふりをした

彼はいつからか勲章をぶらさげて人前に出るのを好まなくなった

だが勲章を並べてひとり眺めるのはまだ楽しみなことであった

彼は61歳で退役し孫は五人、釣りや弓をして暮らした

自分を幸せものだと思って大いに満足して暮らした

ある日くだんの絵描きの男にたくさんの勲章を見せた

いまだにぶらぶらしている絵描きはひとつひとつ眺めると言った

「君はまるで勲章をもらうために生きてきたようだ。りっぱだね」

彼は絵描きが帰ってから 急にふさぎこんでしまった

「おれのしてきたことはたったこれだけのことだったのか」

彼は苦しくなり、病気になってしまった

「くださらない」といったむかしの恋人の眼が浮かんでは消えた

「やってしまおうか」と考え 彼女に会いに出かけた

おじいさんとおばあさんになったふたりは茶をすすりながら静かにすわっていた

孫のことなども話し合い あのときの勲章をおもむろに出した

彼女は手にとってしばし眺めたがとつぜんそれをぽいと口に入れた

勲章をなめながら彼女は大きな目をくりくりさせて笑った

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筑波日記(抜粋)

1944年、浩三さんが筑波山麓の兵営の中で書きとめていた膨大な「筑波日記」のなかで、私が構成して舞台で読んでいる一部分を紹介します。

「筑波日記」

この貧しい記録を わがやさしき姉におくる 浩三

1944年1月21日

三島少尉に呼ばれて、ゆくと、こないだの演芸会で発表した「空の神兵」の替え歌は神兵を侮辱したものであるから、今後うたうべからず、つくるべからずと。

1月24日

あしたは軍装検査で、夜はその準備であった。なんの検査でも、検査はどうも好かぬ。

1月25日

17日の会報で、航空兵器の発明を募集していた。今日、松岡中尉に言いに行き、正式に発表することになった。すると、急に自信がなくなった。・・・もったいぶったふうで、その原稿書きに午前中をついやして、演習をのがれた。わかりきったことをくだくだ書いて、原稿にした。

1月26日

伊丹万作氏から、ひさしぶりでハガキが来た。

めずらしく雨であったが、すぐやんで、青空になった。中村班長が頭を刈ってくれといい、刈ったことがあるかという。ないけれども、あるといって、刈ってやった。顔をしかめていたから、だいぶん痛かったのであろう。餅をひとつくれた。昼飯は、動けないほど食った。そのうえ、飯ごうでおじやをつくった。

2月22日

夜、号令の練習。竹内の号令はしまりがない、と。

枯れ枝の空いたところに、星がひとつ。

明日はまた外出できる。班内でぼくが一番よく出ている。

一日中銃剣術。昼から試合。10本やって2本勝つ。いちばんビリ。

3月16日

星の飛行場が海のようだ。

便所の中で、こっそりとこの手帳をひらいて、べつに読むでもなく、友だちに会ったように慰めている。そんなことをよくする。この日記に書いていることが、実に情けないような気がする。こんなものしか書けない。それで精一杯。それがなさけない。もっと心の余裕がほしい。

中井や土屋のことを思う。余裕のある生活をして、本も読めるだろうし、ゆたかな心で軍隊を生活し、いい詩や、いい歌を作っているだろうなと思う。

3月18日

昼、木村班長が操縦見習い士官を受けるものはいないかと言いに来た。40分ほど考えていてから、受けますと言いにいった。どうして受ける気になったと、奥谷が言った。「ちょっと、いばってみたくなった」。すると「その気持ちはようわかる」と言った。涙の出るような気がした。

宇野曹長が、ぼくの服のきたないのをとがめて、いつから洗濯しないのかと言った。ほんとは9月にここへ来てから半年余り、一度もやっていないのだけれど、正月やったきりですとウソをいうと、それでもあきれていた。さっそくせいというので、雨がじゃんじゃん降っていたけれども、白い作業着に着替えて洗濯をした。

4月13日

唱歌室へ行って、オルガンを鳴らしていたら、子どもがどっさり集まってきた。「空の神兵」をひいたら、みんな、それを知っていて、声をそろえて歌い出した。自分も歌って、きわめていい気持ちになった。そこへ、笠原房子に似た女の先生が入ってきたので、体裁悪くなって逃げて帰った。

4月14日

ぼくが汗をかいて、ぼくが銃を持って。

ぼくが、グライダァで、敵の中へ降りて、

ぼくが戦う。

草に花に、娘さんに、

白い雲に、みれんもなく。

ちからのかぎり、こんかぎり。

それはそれでよいのだが。

それはそれで、ぼくものぞむのだが。

わけもなく、かなしくなる。

白いきれいな粉ぐすりがあって、

それをばらまくと、人が、みんなたのしくならないものか。

ものごとを、ありのまま書くことは、むつかしいどころか、できないことだ。

戦争がある。その文学がある。それは、ロマンで、戦争ではない。感動し、あこがれさえする。ありのまま写すというニュース映画でも、美しい。ところが戦争は美しくない。地獄である。地獄も絵に描くと美しい。書いている本人も、美しいと思っている。人生も、そのとおり。

5月8日

隊長室へ入る作法というやつはなかなかむつかしい。ノックする。戸をあける。回れ右をして、戸を閉める。また回れ右して、敬礼して、

「中隊当番まいりました!」

という。回れ右は二度するだけだけれど、何度もくるくる回るような気がする。それがワルツでも踊っているようで、楽しい気さえする。

5月13日

班内に花を生けることが許された。サイダーびんに、つつじと菜の花とぼけをさした。

窓があけはなしてあって、五月の風がすうすう流れて、はなはだ具合がよかった。ぼくははだかになって、花をみながら飯を食った。左の腕は銃剣術で、むらさき色をしていた。

5月19日

びんにさしたつつじの色が、あせていた。

きのう、ラジオでベートーベンのロマンスをきいた。

雨の降る窓に、つつじの花が咲くように、咲くように、咲いていた。

夕方が来て、さびしさがきた。

からいたばこを吸っていた。

5月27日

面会に来た竹内呉服店番頭、乾省三のかばんの中から、まるで手品使いのように食べ物が出てきた。いなりずし、うなぎ、のりまき、にぎりめし、パイカン、キャラメル、りんご、ドーナツ、バター、かんぴょう、たけのこ、しいたけ。食べていた。11屋がサイダーと親子丼をごちそうしてくれた。

6月16日

夜になって、はなはだしい眠さがきた。弾薬庫に歩哨していて、ごろりと横になって寝ていた。これが見つかれば、ただではすまぬ罪になる。営倉だけでは、すまされない。寝ていた。

あとでこのことを人に言ったら、だれも本当にしない。すくなくても2年以上の懲役であろう。

6月21日

おとといやった使役のつづきを、一日やった。手箱の奥から、中井利亮(としすけ)が入隊前におくってよこした詩が出てきた。利亮をいとおしく思うこと、切なるものであった。

背景について

竹内浩三さんが23年の生涯の中で全力をあげて創作できたのは、東京で同郷の友人たちと「伊勢文学」創刊号から第4号を準備するまでの1942年4月から9月、たった半年間のことでした。21歳のその年、日大専門部映画科を半年繰り上げて卒業。10月1日、

三重県久居
町の中部第382部隊に入営。その1年後、1943年9月に
茨城県
西筑波飛行場に置かれた滑空部隊に転属になります。

竹内呉服店の番頭、乾省三さんは嘆いたそうです。「竹内敏之助にしたと同じく、上官に高価な反物などの付け届けをしたにもかかわらず、浩三はもっとも危険なグライダー部隊に配属されてしまった・・・」と。でも、浩三さん自身は「空を飛んだ歌」を日記に書き、上官にとがめられながらも、人が演習に出ているときに得意な地図や絵を描いたりコマをつくったりと、得意な作業で部隊では重宝されていたようです。字のかけない兵隊に、手紙の代筆をよく頼まれたりもしていました。

筑波日記はそんな兵隊のひとりであった竹内浩三さんが1944年1月1日から毎日、お便所の暗い灯りの下で書きつづけた、軍隊生活の記録です。そのほんの一部分を抜粋して紹介しました。ぜひ声に出して読み、味わってください。

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メディア掲載

2000年8月30日 夕刊三重1面トップ「竹内浩三さんの詩に曲 あす神奈川の女性が演奏と歌 姉の松島さん(日野町)に披露」

2000年8月31日 毎日新聞三重版「竹内浩三さんの作品歌い上げる 横浜の劇団代表と作曲家   実姉にささげる演奏会 31日に松阪で開催」

2000年9月1日  夕刊三重「松島さんや市民ら65人 竹内浩三さんの詩コンサート」

2000年9月17日 朝日新聞 「天声人語」

   「竹内浩三をめぐる二つの催しが、この夏、生まれ故郷の三重県伊勢地方であった。・・・」

2000年11月11日 朝日新聞三重県伊賀版「戦没詩人・竹内浩三をうたう 横浜の2女性、青山で演奏会 歌・詩の朗読・ラジオ録音」 

2001年5月13日 朝日新聞神奈川県版「23歳戦死の詩人 自由な魂忘れない 竹内浩三の作品歌い語る 誕生日に横須賀で」

2001年6月10日 朝日新聞三重版「23歳で戦死、伊勢の詩人竹内浩三 作品に曲つけ演奏会」

2001年6月15日  朝日新聞三重版「平和への願いこめて詩朗読 津で」

2001年6月15日  毎日新聞三重版「詩人・竹内浩三の“骨のうたう” 戦争のあわれ 歌に」

2001年7月20日  朝日新聞横浜版「戦死詩人竹内浩三 あす中区で魅力を再現」

2001年7月     神奈川新聞「“骨のうたう”音楽会 21日、横浜・情文ホール」

2001年8月15日  I女のしんぶん「“骨のうたう”音楽会 歌をとどける旅2001」

2004年8月10日 朝日新聞東京版「戦中の鋭き詩 歌に乗せ響け ファンらがライブ 15日西荻窪」

2005年8月13日  NHKラジオ「あさいちばん」で歌が放送される

2006年8月16日 中日新聞伊勢志摩版「竹内浩三の魅力届けたい 詩歌い朗読の会」

2006年8月21日 朝日新聞名古屋版・竹内浩三特集(連載第2回)「弟の“叫び”問い60年」

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みんなの声~心のやりとり

■2000年

♪よばれもしないのに押しかけて「歌をきいていただく」という活動がスタートした。8月31日の会はふしぎな空間だった。今夜なぜここに来たのか、みんながいつのまにか自分を語っていた。浩三さんのお姉さんをはじめさまざまな人と出会い、人生の大先輩の方々の気をいただいて、私の歌づくり本能が回転しだした。歌をとどける旅のはじまり。。最初の企画者である友人の五月女ナオミさんに感謝する。11月に招待された三重県高校国語科研究会のイベントでは、何年たってもずっとこの活動を支えてくださっている伊勢市の森節子さんに出会った。

8.31三重県松阪市「“骨のうたう”をきいていただく会」を終えて

・本当に感激の一夜でございました。すぐにもお手紙をと思いながら、言葉も書けぬ思いでした。あのお声がいまも響いてきます。それにまた、鳩サブレ、私の大好物、うれしくいただきました。当夜の反応もすばらしいもので、お電話で感激のお声を数名からいただき、夕刊三重も65名(の参加)と取り上げてをります。(松島こう子)

・歌や朗読に、胸がしみる夕べでした。会を開いてくださってありがとう。

     当日見慣れない人がいすを並べていると思ったら、歌手本人とは・・・。マネージャーもなくこのような活動をよくなさいます。

     いまどき珍しい心の資本家。(!と思ってよくみたら「音楽家」だった。きゃー、達筆で・・・)

11.10

三重県青山町

・人口1万人ほどの小さな町のホールで、あのような心通じ合うコンサートをしてくださって感激でした。今思い出しても心に灯がともったようなきもちになります。ことばを声に出して、音にのせてあらわすことってこんなにすてきなことなんですね。(農業高校の生徒さんを引率してきてくれた先生のHさん。この日高校の野菜部(!)で生徒さんがつくった魔法のようにおいしいケチャップをいただきました

・浩三さんのお姉さんのラジオ出演の声がとても心にしみた。

(以下、高校生の感想)

     申し訳ないが、詩集を部屋で一人で読むほうがいい。(!いまに見ていろと思ったわたくし

     わたしは戦争についての学習とか重々しくてキライだ。まじで苦しい。でも、竹内姉が生きておられたのが、すごいびっくりした(会場からあいさつなさった)。詩にはリアルさがあった。

     2001年

♪この年は5月から8月までなんと7公演の旅をした。地元の横浜でも開催したところ、職場の同僚たちや親戚のおばさん、幼馴染まで動員?され、200人の会場は笑いにあふれた。

三重県伊勢
市の浩三さんの母校の高校のホールでも、同窓会の後援を得、浩三さんゆかりの方々のあたたかい空気の中で聴いていただくことができた。浩三さんの大親友だった中井利亮さんもいらしてくれ、翌日は二見海岸の中井さん宅をたずねていろいろお話をうかがったのも貴重な思い出だ。中井さんは翌年亡くなられた。奥さんで歌人の中井信子さんはたいへんなユーモア人で、今でもときどきお線香をあげにおしゃべりをしに寄らせていただいている。

一連の旅程のなかで応援してくださる方が増えていった。私は、“歌を作りながらビールばかり飲んでもいられまい”という気になってきた。浩三さんの歌は10曲に増えた。

三重県
の会場での感想より

     心にしみとおる素敵なコンサートでした。竹内浩三さんのたましいが伝わってきました。

     戦争を知らない子どもたちにも、学校などを回って、こんな語りや歌をきかせてほしい。

     ひょんと死ぬるや・・・。重いいのちがいともかんたんに消えてしまう戦争というもの。忘れないことが生きている者の使命でしょうか。

     中国大陸で8年間戦争を体験した父が一切語らなかった、その一端を(歌の後の)交流会で聞いた思いでした。

     父は昭和19年、戦死しました。くやしいです。が、今日は心がいやされました。

     「生きることは楽しいね」(“三つ星さん”の詩)と感じることができた。

     反戦の歌かと思っていたら、戦争に行ったひとりの青年の心情を歌った心温まるコンサートで、怒りより切ない気持ちになりました。とてもよかった。

     23歳の若さで亡くなられた竹内さんの姉君が会場に元気な姿を見せられ、弟さんの歌をみなさんに聴いていただく喜びを語られた。とても品のよい、きれいな方だ。

横浜会場での感想より

     “三つ星さん”の楽譜をありがとう。ピアノで弾いていたら子どもが「あ、みつぼしさんのうただー」と寄ってきました。なんか、メロディーと詩がすごくマッチしているよね。泣き笑いたくなるような気持ちの歌。(同僚より)

     コンサートお疲れ様でした。しっとりと手作りのいい時間をすごしました。竹内浩三という人物が半世紀以上前に、ときにまじめに、ときにふまじめに生きて死んだ。その気持ちを21世紀の今、物好きな女性があちこちに伝え歩いていて、物好きな観客が聞きに行き、さまざまな思いをはせる。とてもすてきなことですね。

浩三のユーモアセンスやとぼけた味わいはとても気に入っています。あの時代の生身の息遣いというようなものを感じ、戦争で死んでいった人々をいとおしく、身近に思います。(何度も大きな記事を書いてくれた、朝日新聞記者・上野創さん)

     2003年

一念発起し、声のレッスンを受け始めた。師匠は「五感の音楽家」の佐藤慶子さん。「自分の声を探すには年齢的にラストチャンス」といわれた。半年たってやっと人前で歌うのがこわくなくなり、思い切って西荻窪のライブハウス奇聞屋を借りた。松島新さんがスライドを映してくださった。器用な共演者・相馬正男さんはいつのまにか浩三さんの大写真パネルをつくってくれた。坂浦洋子さんの朗読とのコラボレーションは楽しかった。岩波現代文庫や藤原書店の編集者や、東京での浩三ファンの若者たちが小さな場に集まり、心のやりとりができた。私の中にまた小さな確実な灯りの種子がともった。

いただいた花束を抱えて、るんるんと家に帰ったら長女が「ママあんまりいい気にならないほうがいいよ」といった。次女は考案した“三つ星さん体操”をしていた。

     ライブの成功、ばんざーい。大きなホールとちがってライブハウスはとてもアットホームで交流ができてよかった。お客さんのひとりひとりが初対面でも親しみ感じるなあという感じでしたね。浩三好きな人には好感度高い人が多いですね。(森節子さん)

     こんなお金にもならないけれど自分たちの思いを寄せている空間があるのですね。

     小さな小さなライブハウスに40人ほどが集まった。子どもから老人まで、ことごとくよい顔をしていた。共通の友人を懐かしむような、そんなあたたかさがあった。互いの肩をくっつけながら、それぞれの想いを竹内の詩に乗せた。小園さんの笑顔の大きさには、だれをも励ます力があった。「三つ星さん」の詩が好きだという。

     浩三さんに想いを寄せる人たちにお会いできたこと、貴重な体験でした。岩波書店の方がおっしゃっていたように、私も浩三さんに恋心のようなものを抱いてしまうのです。小園さんが曲を作るのにも、そうですか?(いえ、私は自分の中に浩三さんと同質なものが流れているのを感じるのみです。そうとう変な人だと思います)

     「ぼくもいくさに征くのだけれど」の歌とピアノ、心の琴線にふれました。心熱くなるひとときでした。

     浩三さんの言葉は声に出すと響きがよいですね。「喋るように詩(手紙)を書いた」といわれていますが、コンサートを聴きながら、本当にその通りだと改めて思いました。フィリピン行きも含めて、取材のほうも佳境に入ってきたという感じです(稲泉連)

     バンマス(バンドマスター。うちでは小園さんをこう呼んでいる)は話芸も天下一品なのであった。私たちが気取りまくっていると、いきなり楽屋の幕を開け放って、その日までのことをドキュメントにして本人呵々としているのであった。おかげで女優を演じきるはずだった坂浦さんからは黄色い声が上がる。欲深い小園さんはいつか「歌だけ」でもみんなをうならせるにちがいない。楽しみにしている。バンマス、ガンバッテ。

(共演者・相馬正男さん)

秋には、なんとこのライブを録画したビデオが回りまわって

三重県
の高校の授業で使われていた。それを見た生徒さんから。

     「雨」という歌の「ざんござんごと雨がふる」というフレーズが耳についてはなれず、思わず口ずさんでいた。

     歌を聴いていて、竹内浩三の詩は音楽にぴったりで、まさに音楽によって私たちの心に熱く入ってくる感じがしました。浩三の詩は荷物で、音楽という列車に荷物を載せて、私たちの心という駅に荷物を持ってきてくれるのです。

     2004年

奇聞屋で2回目のライブを、昼夜2公演行った。ところが8/15という日は帰省する人も多く、集客できない。困っていたら朝日の上野創さんが稽古場に取材に来て、大きーな記事(写真)を書いてくれた。結果は完売。知らない方ばかり至近距離でみているので昼の部はあがってしまった。最前列のおじいさんが1曲聞いたら帰ってしまった。ああああ。。。道は遠し。

この年は文学座の俳優、田中明生さんに参加してもらうことができた。プロの方の作品に対する真摯な取り組み姿勢には脱帽した。「筑波日記」のダイジェストを作って、かけあいで朗読したり、歌も前年よりさらに増えたので二部構成にした結果、前半(じつは私はこのあたりの失恋の歌がいちばん好き)と後半の作品群がそれぞれ際立って、「後半はまるで映画をみているようでした」という感想もいただいた。相馬正男さんのハモニカや二胡もさえている。

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     Imgp1323 黒澤プロダクションの野上照代さん(写真)が昼の部で、一緒に映画の仕事をしようと浩三さんの帰りを待ちわびていたというお話をされたのには感激でした。一流の方は気さくで、すてきですね。(森節子さん)

     小5の息子の夏休みの宿題に役立てばと戦争関連の記事を切り抜いていたところ、朝日新聞でこの会を知りました。竹内浩三さんの素朴な人柄にとても惹かれました。戦死した詩人の「骨の詩」を聞きに行くのだからやはり服は黒になどと考えていたので、最初の「三つ星さん」や「金がきたら」を聞き、びっくりして椅子から転げ落ちそうになりました。そこから浩三ワールドなのか小園ワールドなのか、すっかり惹きこまれ・・・。出口で本を買いました。私の中の<骨の声を聞く旅>は出発したばかりです。

     昨年はファンクラブ祭りみたいな感じもありましたが、今年は満員御礼、初めて聴く方々が多く、公演になっていました。素敵な場をいっそう大きくしてくれました。といっても、発信する側と受け取る側と思いはひとつで、すてきなライブだったと思います。

     2005年

26歳の稲泉連さんが『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。帝国ホテルで開かれた受賞パーティには

三重県
からも松島さんをはじめみなさんが参加し、私たちもうれしくて大騒ぎした。「受賞のことば」より。「残された言葉は、彼に愛情を寄せる人たちの手から手へと受け渡されてきました。そのプロセスがあって初めて、1篇の詩が時代を超え自分のもとに届いた。だからこそ竹内浩三について書くことは、僕にとって言葉を伝えることや“表現すること”の大切さを学んでいく体験でもありました」と。

その稲泉さんにトークをしてもらって、この年の会は大いに締まった。また、朗読には坂浦洋子さん(演出でも力を発揮!)のほか、西川亘さんを迎えた。西川さんの朗読は浩三さんを地でいくようで、うなってしまった。NHKラジオで取り上げてくださった記者の佐治真規子さんもいつしか浩三ワールドにはまっており、にぎやかな夏だった。

     何も知らないで伺いましたが、会が進むにつれ、浩三さんの愛と情感がしみじみ伝わってきました。パンフレット裏の浩三さんの文と絵、サイコーですね。楽しい会でした。

     去年より惹き込まれました。西川亘さんの朗読は響きに訴求力がありました。

     前半は「麦」、後半は「南からの種子」と「骨のうたう」が印象的。今年はエンターテインメント性が高まっていた気がして楽しめました!  口笛も朗読も多彩な楽器もすてき。

     「骨のうたう」しか知らなくて来てしまった。けれど、第一部で天真爛漫な竹内浩三を、第二部であれよあれよと戦争に巻き込まれていって、その中で切に生きたいと願った彼の姿が朗読と歌で浮き上がった。学費欲しさに兵となってイラク戦争に征くことになった米兵の姿とも重なって切なくなった。

     西川さんの朗読、口笛・・・よかったですね。最後のほうで軽く声を合わせて歌っていたのもよかったです。・・・そうそう、私もプログラム、いいなあと思いました。戦艦長門見学の一こまを独立して抜き出し、ひょうきんな取り合わせが秀逸でした。内側の漫画もどこからひっぱってきたの? と思うようなかわいさでした!

     楽しかったです。竹内さんは面白い人ですね。詩もよいけど、らくがきイラストもかわいくて。「三ツ星さん」は最初とラストに聴いたので、メロディをちょろっとおぼえてしまいました。

     稲泉さんの話を直接聞けたことで、あの本を彼と同年齢の娘にも読ませたいと思った。浩三さんのお姉さんの短歌、しみじみと胸にしみた。

     稲泉連さんとの対談、秀逸でした。また来年も楽しみにしています。

     構成が自然なのがいいです。しんどい詩が「骨」ですが、楽しい催しでした。連さんの話と後半の盛り上がり、皆さんの気の合いよう、気持ちよかった。

     NHKラジオでいたく感じた連れは、「こういうのはなかなか聞けないわね。何か温かくってよかったわ」でした。そう、うまいとかどうとかではなくて、何か人間の呼吸が聞こえる音楽会ではあったかなと、小生も内心思いました。今日二人、ファンが増えました。ご健闘を祈念!        

     とにかく感動しました、涙をこらえるのに、苦労しました。でも止まらなかった。。。今度ライブがある時は、ウチの母も連れて行きたいと思います。

     今年もまた、曲よし、ピアノ演奏よし、朗読よし、小園さんの軽妙なお話もよし。そして今回とくに構成がよいと思いました。稲泉連さんのお話も。竹内浩三の無垢なところと鋭い先見性の両面に胸が打たれました。乾杯!

     2006年

高校の体育館で、高校生の朗読とのコラボレーションを企画、実現し、意味合いが広がった。M先生の尽力のおかげだった。生徒たちはよく聴いていた。なにしろ終わってすぐ駆け寄ってきて朗読した子に「おまえ、まちごうとったぞ“生殖もしたかったの”いうたやろ。」という。正しくは“生殖もしなかったの”である(詩「冬に死す」)。わはは。授業で事前学習もされているのだ。すばらしい。そのあと、中学からも人権学習ということでよばれた。体育館がつづく。300人なんて、自前ではとても集められない人数だ。若い人たちにじゃんじゃん歌をとどけよう。

8/15には

伊勢市
で西川さん、相馬さんとの共演で行った。松島さんがお元気であいさつされ、地元の中学生(松下美智子先生の教え子たち)が「三つ星さん」を最後に歌ったのをたいへん喜んでくださった。場をつくるのは楽しい。全部で2時間半の欲張り企画だった。このときの録音を初めてCDにした。

蛇足だが、三重県産のあわび炊き込みご飯の素(1000円)、伊勢海老風味インスタントみそ汁はおいしい。

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(高校生の感想より)

     戦争に行かなければならないという恐怖と、自由へのあこがれを強く感じた。  

     少し変わった人だったんだな。

・ 戦争のせいで竹内さんのような未来ある若者の命がたくさんなくなったのかと思うと悲しい。これからも、こういう形で、次の世代の人へ続いていくといいと思います。  ・もっと詩を知りたい。

     竹内浩三さんの詩は、内容が真っ直ぐで、わかりやすくてすごく良いと思った。

     自分たちと歳もそんなに変わらないのに、いろんなことを考えているんだなあ。

     戦争中でも、自分の思いを表現していたというのはすごいと思う。生きることの喜びを、これらの詩によって、少しは感じることができた。

     自分のやりたいこともできずに、戦争に行かされた竹内さんは無念だったと思う。もっとやりたいことをどんどんできるような社会にしていかなければ、戦争していたときと何も変わらないと思った。

     詩とか絵を描くのが好きなんだなぁと思った。恋愛の詩…ってか、女の人がよく詩に出てきてて、あぁなんかひきずってるのかな、と思いました。「あきらめろと言うが」は切なくて、好きだと思った。

     歌の内容に共感を持つ部分がすごくあった。

     ピアノがとてもきれいだった。4人の生徒の朗読がひとつひとつ気持ちが入っていてすてきだった。(友達の)ふだんは見られない姿が見られてよかった。

     今までにない人権学習だった。

     弾き語りをしている人は楽しそうで、本当に竹内さんのことを好きなのだなあと思った。

     悲しいときも苦しいときでも詩のことを考えて、そう、彼は詩、歌が心から好きと思っていたんじゃないかな? 自分も、どんなときでも忘れない大切なものがほしいと思った。

ちなみに、「印象に残った歌や文」でベスト5は次のとおりです。

1位 「三つ星さん」79

2位 「金がきたら」53

3位 「骨のうたう」47

4位 「うたうたいは」26

5位 「雨」18

(6位に、生徒さん朗読の「筑波日記」15票、でした。)

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生きのびるための歌

 子どもの頃から、道の真ん中歩きながら歌をつくるのが好きだった。家にはピアノなんてなく、代わりにちゃぶ台を叩いていた。1960年代の終わる頃。

詩を書くのも好きだった。なにか感じると、それを記録したいと願った。書くことはちょっと苦しい。けれど音は楽しいものだった。言葉と音がぴったり合うと、うれしかった。中学のとき、夏休みの自由課題で初めて歌を書き、体育館で全校生徒の前で弾き語りした。昔から心臓に毛が生えていた?

そんな自分の習性を大人になって忘れていたが、この「歌を届ける旅」を2000年に始めてからは思い出してしまってとまらない。どんどん歌は増殖していく。トントン拍子で波に乗り、自主企画も次々行い、新聞に掲載され、またそれを見た人が招いてくださり。。。

そうしてあるとき、私はいきづまって力を失い、来る日も来る日もぼんやりと漂っていた。苦しい季節だった。自分を棚下ろしつつその季節を抜けかけたとき、内側から今度は自分自身のことばと音が同時に出てきてうたになり、驚いた。自分を励ますために、私は毎日道を歩きながら呪文のようにうたをつぶやき続けた。生み続けた。そしてなんとか生きのびた。そうしたら人に聴いてもらいたい、という気持ちがむくむくとわいてきた。「話を聞いてよ」というのはふつうだが、「ねぇ、お願いだからうたをきいてよ」という私にいやな顔せず付き合ってくれた友人たちに、謹んで感謝する。その完全自作のシリーズを最近では「うたをつぶやく旅」と名づけ、ときたま人に聴いていただいている。「聴いてくれる人がボランティア」でなければよいがと祈りつつ。

2006122_zaim 「届ける旅」「つぶやく旅」、どちらも私にとっては、かけがえのないものだ。

「ストリート婆のうた」という自作を、コンサートの日に近所のいきつけの美容院で髪を編んでもらいながら歌ったら、美容師さんが「そのうた、涙出てくる」といってコンサートに来てくれたことがあった。敬愛する自助グループNABAのうた「たましいのかぞく」(2001)の曲を書いてから、自助グループの集まりでも聴いていただく機会が増えた。なぜかそこでも会場で泣いている人に出会い、びっくりする。生きることはいとしい、かなしい、だから人に出会えてうれしい。そう思っている。私自身生きるのにうたが必要だから、人が1日生きのびるのにも役に立てたらほんとにうれしい。うたも喜ぶことだろう。

そんなうたは自分の中からだけ出てくるのではとうていなくて、人の語る話や声を聞いていてうたを感じることもあれば、働く人の緊張したしぐさに無言のうたやエロスを感じることもある。大きな木を打つ雨のうたを聴くこともあれば、緑の風のうたを聴くこともある。そういう生きた美しいものをすくいとって、秘湯のお湯のようなうたをつくりたい。つかるとじわっと長くあったまれるような。

あるとき「あなたのうたは、けれん味がなくていいですね」といってくれた人がいた。辞書を引いたら「媚びへつらいがない」という意味だった。そう、浩三さんの詩にはひとかけらもそれがない。媚びへつらって生きていかねばならない世の中でじたばたするにんげんは、自分は、おかしいね。

自分の尊厳を守ることが難しくない時代など、かつてあっただろうか。うたうことは楽しむこと、そしてぎりぎりのところでもちこたえているいのちに風を吹き込むこと。ひとびとのなかで。そう思っている。

★2004年、NABAのなかまと小野のん子さんと敢行した「やっかいな夜会」

★2006年、ウィメンズ・ネットワーキング・バー“はる美”の2周年で企画参加させていただいた「歌をつぶやく旅」

★2007年「くわぁいだん in ZAIM」のなかまと声をさがす旅の師匠の佐藤慶子さん

それぞれの旅するみなさまに力をいただき、謹んで感謝申し上げます・・・

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